黒鳥の架け橋





「ヒノエくんの馬鹿」

勝浦の海に沈んでゆく夕陽に向かって望美は呟く。


聞く相手がいないその言葉は、虚しく波の音にかき消された。

(
今日は天の川を見に行こうって約束したじゃない)

夫であるヒノエは急用のため、昼間、熊野を立ってしまった。


市に買い出しに行っていた望美は烏からの連絡を受け、そのことを知った。

連絡をする時間が惜しいほど、急な出発。

(
買い出しなんか行かなきゃよかった。そしたら一緒に京に行けたかもしれないのに……)

この日は絶対にあけるから、と多忙にも関わらず、ヒノエは約束をしてくれた。


それなのにどうして邪魔が入るのだろう。

いや、仕事だから仕方がないというべきなのだろうか。

幾度溜め息をついたかわからない。

(
とりあえず宿に戻らなきゃ)

勝浦にあるヒノエの定宿に望美はヒノエとその父・湛快と共に泊まっていた。

宿に戻ると湛快はまだ帰っていなかった。

勝浦の町を見ているのか、馴染みの人と飲みに行ったのか。

望美はやることがなくて、畳の上に寝転がる。


開け放した窓のから汐風が入って来る。

ひんやりと冷たい風が心地いい。

(ヒノエくん今ごろどうしてるかなあ)

磯の香を胸に吸い込みながらつらつらと考える。

陽が傾くにつれ室内は薄暗くなってゆく。

行商人や漁師たちが帰りだしたのか。

騒がしかった港はやがて静かになった。

天候が崩れることの多いこの季節だが、今日は珍しく朝から快晴を保っていた。

きっと、天の川がよく見えるだろう。

ぼんやりと眺めていたはずの天井が突如見えなくなった。

うとうとしてしまったのだ。

睡魔を自覚すると無性に眠りたくなる。

夕餉までまだ時間がある。

やることもないし、ヒノエがいないことを忘れるには寝てしまうのが一番ではないだろうか。

湛快は暫く帰ってこないだろう。

(ま、寝てもいいよね)

望美は眠りの海へと身を委ねたのだった。

 

 

 

(急用で熊野を離れることになってゴメンな。だけどさ、オレは姫君との約束を破るようなヒドイ男じゃないぜ)



 ヒノエは夜道を走っていた。ヒノエの部下その後ろに続く。

 目指すは、勝浦の定宿だ。

 望美は今何をしているのだろう。

 そんなことを走りながら考える。

 海の近くは風が冷たい。

 ちょっと走っただけでは汗はかかないだろう。


 それなのに額から落ちる雫を拭わないといけないのは、それだけヒノエが疾走してきたということだ。



 目的の宿に着き、息を整える。

 部下に、ここで待ってろ、と命じると、ヒノエは宿に入っていった。

 

 

 

 

酷く寒い。

身体がすっかり冷え切っていているから寒く感じるのだ。

身体が冷える?

わたしは室内にいるはずなのに?

時折、地面が揺れる。

ぐらぐらと。

な、何?

地震が起きたの?

望美は夢現の中でぼんやりとしていた。

「……姫君」

肩を揺すられ望美は瞼を開けた。

「ふふっ、よく寝てたね」

悪戯っぽく笑っているのは……

「ひ、ヒノエくん!?」

望美は驚きのあまり素っ頓狂な声をあげてしまった。

「どうしてここに? というかここはどこ?」

そう、自分は宿で寝ていたはずだ。 

それなのに自分の目の前に広がる光景は、天も地も黒い。



明かりを消した暗さではないことは、ざざっざざっと聞こえる波の音とそれに合わせて揺れている地面で明白だ。



「やっと、お目覚めかい。オレの姫君。ここはオレの船の上だよ。そしてオレは京への急用を断ってここに来ている」


ここは予想通り海上のようだ。

おそらく寝ている間に望美を船へ運んだのだろう。

一度寝たら少々のことでは絶対に起きないとはいえ、あまりにもこれは酷すぎる。

途中で気づいてもよさそうだが……。

それほど疲れて眠っていたのだろうか。



眠りこけている自分を見てヒノエが「望美はまたこんなところで寝て」と呆れるのが目に浮かぶ。そして「ま、こんな無防備な寝顔を見れるのも夫の特権かな。寝ているときも花のように可憐なのは変わりないようだね。こんな姿、見せていいのはオレだけだよ」なんて、甘い台詞を言うのが、安に想像できる。



船に連れてきたのはいいとして。

「急用を断って?」

望美は小首を傾げた。

ヒノエは熊野の頭領だ。

急用を断っていいはずがない。

それが新妻との約束であっても、許されるはずないだろう。


「あぁ。可愛い姫君との約束、オレが破れるはずないだろう? そんなことしたら、末代までの恥だぜ」


「でも急用でしょう? 誰かが行かなくちゃ……」

「代わりに親父が行っている」

「はっ?」

「普段は隠居したからって何もしないのにさ。こういうときだけ、いい役を演じようとするんだから」

憎まれ口を叩くヒノエに、舟を漕いでいた彼の部下が言う。



「でも、大将。おかげで助かったじゃございませんか。あの方が代理をしてくれなければ、今頃、どこかの山奥で野宿していたかもしれないですぜ」



「お前に言われなくともわかってるよ」

 二人の会話から理解するに、どうやら湛快がヒノエの代わりに京へ赴いたようだ。


「でも、ホントよかったですぜ。こうして大将が約束を無事果たせるなんて……。おまけに今日は雲ひとつない快晴ですし。数日間、籠もって祈祷した甲斐があったってものですね!



「えぇ? 仕事で忙しいんじゃなかったの?」

 昼も夜も忙しいからと言っていたのに。

それは今日が晴れになるように祈っていた!?



「まあ、仕事と祈祷、半々かな。ってか、お前本当に口が多すぎ。ったく、次言ったら、簀巻きにして海に沈めるからな」



 後半は部下を睨みつけながらヒノエは言った。

「ひぇぇ、それはご勘弁を〜」

部下が大げさに言っておどけてみせる。

ヒノエは溜息をつくと、

「ってなわけで、急用は親父に任せている。今日は約束どおり、お前と過ごせるぜ」

「ホント、びっくりしたよ〜。でも、嬉しい。ありがと」

「ふふっ、姫君に喜んでもらえたならなにより。さ、こっちへおいで。夜の海を見せてやるから」

ヒノエの手に掴まり、望美は立ち上がる。

寒さを感じていたことを思い出し、身震いをすると、

「寒いのかい?」

頷けば、どこから取り出したのかわからないが衣をそっと肩にかけてくれた。

「まだ寒かったらいいなよ。次はオレで温めてやるから」

 耳元で囁くように言ったヒノエに、望美は頬を赤らめた。

「暗闇の中でも、お前が赤くなってるのがわかるね」

 頬をつついてきたヒノエに、馬鹿、と小さく望美は呟いた。

 






 月沈むのを待つ二人」に続く


かっこいいヒノエを目指してみましたが、いかがでしたでしょうか?
ヒノエの口説き文句は難しいと思いました。








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