暫し時間を置いて代わりに口から出てきた言葉は、
「神子殿、あなたには私がそんなに暇人に見えるのかね。俺はこう見えても書類に目を通したり大社の建立の様子を見に行ったりと、忙しいのだが……」
「じゃあ、やっぱりー―――」
「断りはしない。だが、どうして俺を誘うのだ?」
「泰衡さんがいつも忙しそうにしてるから。たまには一緒に息抜きしませんか?」
「なるのほどな」
俺は一呼吸置くと、
「客人からの誘いを断るわけにもいかないからな。共に行かせてもらおう」
大社に行くのは明日にでもしよう。
「ありがとうございます! ふふっ、泰衡さんと一緒に出かけるなんて初めてだな」
「さようにございますね。泰衡様はいつも多忙ですから」
「ところで、神子殿は馬には乗れるのか? 乗れぬのであれば……」
乗せる必要があるな。
「乗れますけど……泰衡さんと一緒に乗るってのは……ダメですか?」
「み、神子殿!?」
「馬に乗っている間もお話できるでしょう? わたし、泰衡さんのこと知らないから、この機会に仲良くなれたらいいなあと思って」
「仲良くなりたい、か。犬ではあるまいし、人の情というものは脆いもの。今日の仲間は明日の敵、ということもある。仲良くなるということは、神子殿の考えるような生易しいものではない」
「それは、明日になれば泰衡さんがわたしたちの敵になるかもしれないから、余り信用しちゃダメだ、ということですか?」
「あぁ、まあそういうことだ」
「九郎さんも同じようなこと言ってたような……」
「そうか」
「でも、乗せてくれるんですよね? 今平泉は安泰だし、それに泰衡さんがわたしたちの敵になることはないと信じてますから」
「なぜ、そう思う」
神子殿は顎に手を当て暫し考えると、
「そんな気がするから」
「ふん、まあいいさ。神子殿が俺のことをどう考えようと、常にあるのは真実のみだ。さあ、喋るのはこの辺にして、そろそろ行こう。銀、お前はどうする?」 「私は用事がございますので、外れようかと考えております」
「わかった」
「銀、またね」
「えぇ、神子殿。また明日にでも……」
俺たちは銀と別れ、馬舎に向かった。
愛馬を馬舎からだし、栗毛色の毛並みを撫でながら俺は神子殿を振り返った。
「どうだ、私の馬に乗るか?」
「はい、もちろん!」
*****
俺と神子殿は毛越寺の近くにある野原に来ていた。
野原に行きたいと言った彼女に、真っ先に思いついた場所がここだったのだ。
「今日の空は澄み渡っていてとても綺麗ですね」
馬から降りた神子殿は空を仰いだ。
俺は馬を気に繋ぐと、彼女に倣い、空を見上げた。
瑠璃のように深く青い空。
雲の切れ間から顔をのぞかせる太陽が眩しい。
「こんなに澄み渡った空を見上げると、どの世界でも空は変わらないんだなあって思います」
ふいに神子殿が呟くように言った。
「あなたが住んでいた世界のことか?」
「はい」
神子殿は懐かしそうに頷く。
「この世界はわたしの澄んでいた世界とは全く違う。建物も衣装も軍があるということも……それでも空は同じ。天候によって日々違っているけれど、それでも基本的なところは変わらない。空を見ると、元の世界を思い出すんです」
「神子殿は戦が終わったら、元の世界に帰るつもりか?」
「それはまだ……わかりません。向こうの世界に戻りたい気持ちはありますけど。この世界のほうが今は大切な気がします。だから、この世界が平和になっても、すぐには帰らなかな」
「そうか」
「ごめんなさい、泰衡さんに話を聞いてもらって」
「構わぬ」
「泰衡さんは空を見て何か思い出したりすることはありますか?」
空、を見て?
俺は手を組むと、
「そうだな。青空ではないが、夕焼けを見ると金を拾ってきた日のことを思い出すな」
「九郎さんが見つけたんでしょう?」
「あぁ。黄昏時になっても九郎が戻らないと御館が心配してな。辺りが茜色に染まる中、俺は九郎が行きそうな所を探し回っていたな。あの日のことは鮮明煮の記憶に残っている。痩せこけた子犬だった金も、ずいぶんと大きくなったしな」
「泰衡さんはやさしいんですね」
唐突に神子殿が言った。
俺は驚いて彼女を見た。
目が合うと神子殿は恥ずかしそうに微笑した。
「私がやさしく見えるか?」
「はい。口は九郎さんと同じで突き放した物言いしかできないけど、心はやさしいん人なんだと思います」
「九郎と比べられても困るのだが……まあいい」
「ちょっと失礼します」
神子殿はそう言いながら、俺の右手を握ってきた。
どきりと心臓が跳ね上がる。
み、神子殿……?
「やっぱり冷たい! ねぇ、泰衡さん、知ってましたか。手の冷たい人は心がやさしいんですよ!」
眉間に皺を寄せた俺に、
「そのままの意味ですよ。わたしより冷たい……いやあんまり変わらない?」
俺は神子殿の手をそっと握り返した。
想像通りのやわらかな肌……ではなく、神子殿も結構冷たかった。
「俺と変わらないな」
「ふふっ、泰衡さんと同じで嬉しい」
「神子殿もやさしいのだな」
「そういうことになりますね」
神子殿は花の咲くように微笑った。
俺もつられてぎこちない笑みを返す。
「そろそろ日が暮れるな。戻るとするか」
茜色に染まってきた西の空を俺は見やった。
「はい、そうしましょう」
「あまり気分転換にならなくてすまなかった。この穴埋めはいつか必ずすると約束しよう」
「穴埋めなんていいですよ。わたしはこうして泰衡さんと一緒に過ごせただけで嬉しかったんですから」
「神子殿……」
あなたは俺のことをどう思っているのか。
今日誘ってくれたことのは俺のことを知りたかったから、と言っているが本当にそれだけなのか。
「さ、泰衡さん、行きましょう」
馬のほうへ近づく神子殿の背中を見ながら、今はまだ聞かぬほうがいいだろうと思った。
そう、もし聞いて玉砕するなら、後のほうがいい。
彼女が元の世界に帰るときにでも伝えよう。
好くても悪くてもそれならば後悔はしないだろう。
*****
神子殿を送った後、俺は少しだけ浮かれていた。
こうして神子殿と一日を過ごせたのは俺にとって大収穫だった。
神子殿のやわらかな笑み、鈴のように美しい声、すべて忘れぬように頭の中で何度も反芻させ記憶に刷り込む。
初めはただの小娘だと思っていたが……銀の報告を聞くにつれ、彼女に対する見方が変わってきた。
父上が昼間おっしゃったように、神子殿が平泉で暮らしてくだされば、この地も安泰になるだろう。
平泉に白龍の加護を。
俺はこの地を守りたい。
そして願わくば神子殿を……。
「おぉ、泰衡」
神子殿のことを考えていた俺は、無駄に明るい声に、慌てて緩んだ頬を引き締めた。
父上が大またで透廊を渡ってくるところだった。
「父上!」
「今日、神子殿に会ったそうだな」
「あぁ」
「どうじゃった? 神子殿と懇ろになれたか?」
「わざわざあなたに報告する必要はない」
「相変わらずつれないのう、泰衡。じゃが、その様子だと、悪いほうには進んでないようだな」
「はい?」
「わしも、お前のことを宜しく、と挨拶をすればよかったのに―――。昼餉の後、伽羅御所にいなかったのが口惜しいのう」
悔しがる父上を見て、彼が屋敷にいなかったことを心の底からよかった、と思った。
父上が今日屋敷にいたら、間違いなく神子殿に変なことを吹き込んでいただろう。
「神子殿は本当に可憐な方よ。わしも若ければ、嫁にしたいもの」
「御館……」
「泰衡、お前ならきっとやり遂げるじゃろう。わしのためにも神子殿と懇ろになってくれ」
そう言いながら父上は俺の肩を掴むと、激しく揺さぶってきた。
父上の気迫に気圧された俺は、ただ頷くしなかった。
「平泉とお前を神子殿に気に入ってもらえるよう、わしも力を尽くそう」
父上は俺とは別の意味で浮かれている。
酒に酔ったわけでもないのに、足を躍らせながら去っていった。
父上、俺を応援してくれるのは大変ありがたいが、俺の気持ちも考えて欲しい。
「恋すてふ我名はまだか立ちにけり人しれずこそ思ひ初めしか、ですね。泰衡様」
「し、銀!?」
「泰衡様の今のお気持ちを詠むとこうなりませんか。私があの人に恋をしていると言うことは、もう広まってしまったよ。誰にも知られないように想っていたのに……」
「お前に代弁されぬともわかっておる」
「泰衡様、私も応援しております」
「銀! もしや昼間外れたのも……」
「さあ、どうでしょう。神子様に会って泰衡様は少し丸くなったように感じられますよ」
俺が口を開く前に銀は悪戯っぽく笑うと、
「私はこれにて御前を失礼致します」
すたすたと歩いて行ってしまった。
まったく、父上も銀も俺をからかって何が面白いのだろう。
俺がこんなにも恋に臆病なのは、無駄に明るい父上の性格が影響しているような気がする。
渡殿から見上げると、漆黒の空に螺鈿細工のように星々が埋め込まれていた。
「星がよく出ているな。神子殿の未来でも占って、逢う口実でも作るとするか」
『そんなことより、泰衡様と神子様の星占いをしたらいかがでしょう?』
不意に銀の声が聞こえたような気がした。
あたりを探せど、人影は見当たらない。
(空耳だな。星占いか。知りたいものだが……悪い結果を見るのは怖いからな。占うとしたらずっと後になって知りたいものだ)
とりあえず今は、神子殿のことを占おう。
俺は占いの道具を取りに行くため、渡殿を後にした。
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