それが合図

 何度、インターホンを押しても返事はない。

 メールで来ることを伝えたはずなのに、どうしたのだろうか。

 望美は玄関のドアノブを回してみた。

(開いてるってことは……いるってことだよね?)

 なら、どうしてでないだろうか。

 いつまでも蒸し暑い外に突っ立っているわけにはいかない。

 望美は意を決して玄関のドアを開けた。

「おじゃましまーす」

 靴を揃え、スリッパに履き替える。

(家じゃスリッパなんて履かないけどなあ)

 これは景時と二人でショッピングモールに行ったときに買ったスリッパだ。

 これから暑くなるので、夏用のスリッパを選びに行ったのだ。涼しさにこだわったせいか、スリッパは中敷部分が畳になっている。

(初めは、履くの忘れていたよね)

 足の裏に当たる畳の心地よさを感じながら、望美は思う。

 最初は玄関に用意されていても、普段の習慣でスリッパを履かずそのまま上がっていた。

 その度に景時の悲しそうな目を見て……。

 それから望美は忘れないように、スリッパを履くようにしたのだった。

 (お蔭で家でもスリッパがないと落ち着かないようになったな)


 望美はひとり思い出すようにくすりと笑った。

「こんにちはー、景時さん」

 望美はリビングのドアを開けた。

 とたんに冷風が流れてきた。

 かなり部屋の温度を低くしているようだ。

「景時さん?」

 辺りを見回しても景時の姿は見えない。

(それにしてもクーラーのかけすぎだよ、景時さん)

 いくら暑いとはいえ、これは温度を下げすぎだろう。

 肌寒い。

 望美は鳥肌を抑えるように、腕をさすった。

 後で景時に、温度を下げて、と言わなくてはいけないだろう。

 望美はソファーの上にバッグを置いた

「?」

 ソファーの上に何かあるのだろうか。

 妙な感じがした。

 バックを取り上げ、望美は回ってソファーの前に立つ。

「か、景時さん!?」

 背もたれからバッグを置こうとしたので気づかなかった。

 景時はソファーの上で、眠っていた。

 長い足は床のほうに投げ出されている。

「寝てたんだ」

 望美は驚いたと同時に安堵した。

(おへそ出して寒くないのかなあ)

 シャツを捲り上げ、景時はへそを出していた。

 異世界でも真冬にへそを出していたから、意外と寒さに慣れているのかもしれない。

 だが、見ている側にとっては寒々しくて仕方がなかったことを覚えている。

「景時さんの寝顔、初めて見るかも」

 一緒にいるとき、先に寝てしまうのはいつも望美だ。

 そして景時に揺り起こされて目が覚める。

『望美ちゃんの寝顔、可愛かったよ』

 と言われ、耳元まで朱に染めながら、絶対景時さんの寝顔を見てやる! と、いつも誓っていた。

(こんな風に叶えられて、よかったかも)

 望美はソファーの横にしゃがみこむと、景時の寝顔を眺めることにした。

 すうすうと規則正しい呼吸が聞こえる。

 景時は枕代わりに頭の下に敷いていた腕を解き、片方だけ下に降ろした。

 そのままその手を腹にのせる。

(昨日仕事だったから、疲れているのかなあ。きっと待ってる間に寝ちゃったんだろうな)

 暫く眺めていたが、景時は一向に起きる気配はない。

(折角来たのに……)

 穏やかな景時の寝顔を見ながら、望美は起こそうか起こしまいかと思案する。

「景時さん、景時さん」

 望美は景時の肩を揺すった。

「うーん」

 景時は煩いといわんばかりに、望美とは逆の方向に寝返りをする。

 もう一度呼びかけるも、相手にされない。

(なによ。今日は一緒にいるっていう約束だったじゃない!)

 何が何でも起こしてみせる!

 望美は景時の呼吸をげるべく、薄く開いた唇に、鼻に手のひらをかぶせた。

 押すように力をかけると、景時は苦しそうにうめき声を上げた。

「景時さん、起きてください!」

 耳元で呼びかけたが、景時は目を開けない。

 それどころか望美の手を剥がすべく、手を伸ばしてきた。

「もう、最終手段にでますからね!」

 望美は今度は景時の上に馬乗りになった。

 腹の辺りに少しだけ体重をかけてみる。

景時の目蓋が苦しそうにぴくぴくと動いた。

さらに望美は力を込めた。

―――っと、その刹那。

 ぐるんと景色が回った。

 望美は何が起きたがわからず、目をしばたかせた。

「あっ、景時さん……」

「わざわざ起こしてくれてありがとう、望美ちゃん」

 怒ってはないが、何か意を含んだ言い方だった。

 掴まれた手首が妙に暑い。

 覆いかぶさってきた景時を見て、望美は急に恥ずかしくなった。

 至近距離で見つめられ、視線で窒息してしまいそうだ。

「気持ちよく寝ているところをごめんなさい」

 望美は早くこの体勢を何とかしたくて、詫びた。

「いや……まあ、寝ていたオレも悪かったしね。うん」

 ふいに景時はそこで言葉を区切った。

 しばし沈黙の後、景時は言った。

「いや、何でもない」

 景時は手を放すと、望美から離れた。

「景時さん、この部屋クーラー効きすぎですよ」

 望美は上体を起こしながら言った。

「そうかなあ〜。ほら、オレって暑いの苦手でしょう? だから、少し肌寒いほうが、涼しくて快適で過ごしやすいんだよね〜」

 望美は異世界から景時が来たばかりのことを思い出した。

 いちいち避暑に行かなくても、クーラーをつければ、冷風で涼しくなる。

 教えたときの景時の喜びようは未だに忘れられない。

 暑さが苦手な景時のために、少し肌寒くても我慢しよう。

 無理やり起こしてしまったことだし。

「もしかして寒かった? それだったら、温度上げるよ」

「平気ですよ」

 二人はソファーの上に並んで座った。

「あ、あのさ」

 景時の言い方は、話そうか話しまいか迷ったような感じだった。

 そういえば先ほども、同じような言い方をしなかっただろうか。

「どうしたんですか、景時さん」

「うーん、何て切り出したらいいんだか」

 景時は顎に手を当て考えている。

「ほら、さっき望美ちゃん、オレに悪戯したでしょう?」

「はい」

「それで、キミがほしくなったっていうか……そんな気がしなくもないっていうか」

 曖昧な言葉を述べる景時に望美は小首を傾げる。

「うん、これは男の性だから仕方がないことだよね〜」

 ぶつぶつと呟く景時にますます望美は首を傾げる。

 悪戯したことを怒っているのだろうか。

 気にしなくていいと言ったけれど、やはりそう簡単に許せるものではないのだろう。 


「悪戯しちゃったこと、本当にごめんなさい。景時さん、何度呼びかけても反応しなくて……それでつい、やっちゃったんです」

「そのことはもう気にしなくていいよ。今迷っているのはそれとは違う。オレの心の問題なんだから」

「はっ?」

「望美ちゃん、オレは誰よりもキミのこと大切だと思ってるよ」

 突然の告白に目をしばたたかせたが、望美は頷いた。

「わたしも、景時さんのこと好きです。かっこよくて明るくて……笑顔を見るだけでいつも元気になれます」

「それはオレの台詞だよ〜」

 景時は照れたように頬をかいた。

 二人は顔を見合わせて、微笑んだ。

「景時さん、大好き」

 望美は嬉しくなって、景時に抱きついた。

「い、今はダメだよ」

 景時はさっと身体を避けようとしたが、望美のほうが早かった。

「どうしてですか?」

 望美は景時を見上げた。

 景時は視線を彷徨わせていたが、やがて。

「もう、だからダメって言ったのに。望美ちゃんのせいだよ」

「何がわたしのせいなんですか?」

 さっきからの煮え切らない言動もあってのことか、つい言い方がきつくなってしまう。

「だから―――」

 耳元で囁かれ、望美はいっきに顔を赤らめた。

 慌てて景時から離れようとしたが、しっかりと抱きしめられているせいか動けない。 

 じたばたと腕の中でもがいてみたが、無駄で。

 そうこうしているうちに、景時の唇が額に触れた。

 こんなことなら普通に起こせばよかった。

 嬉しいような恥ずかしいような、悔しいような。

 複雑な感情が胸の中を渦巻く。

 闇の獣に支配された男は、愉しむように望美を見ている。

「か、景時さんのバカ!」

 それだけ言うのがやっとだった。

それが合図、というように唇を塞がれた。


マガからの再録です。
景時さんの上に乗ってみたいですね!