ぶかぶかの上着は
彼そのもの





「おい、花梨。なんだよ、その格好」

部屋に入ってきたイサトが驚いて尋ねてきた。

「その格好って?」

花梨は訳がわからず首を傾げる。

「ぶかぶかの着物。お前のじゃねぇだろう」



 今、花梨はいつもとはちょっと違う着物を着ている。上品なお姫様の着物、ではなくイサトの言ったとおり、ぶかぶかの男物の着物、だ。色は無地、袖の部分はかなり折らないと指先が見えないし、見ごろの部分は自分がふたりぐらい入るんじゃないかと思うほど大きい。



「その上着……どっかで見たことがあるような気がするな。勝真のじゃねぇし、うーん」

眉間に皺を寄せ黙ってしまったイサトに花梨は微笑んだ。

「これはね、翡翠さんのだよ。今朝一緒に市に行ったときに借りたの。突然雨が降り出したから、翡翠さんが傘の代わりに貸してくれたんだ」

「へー、そうなんだ」

イサトは眉間の皺を消した。

そして珍しいものを見るように花梨のつま先からてっぺんまで見た。

「ど、どうしたの? イサトくん」

「いや、何でまだ翡翠の着物を着てるんだろうって思ってさ。それ、濡れたんだろう?」

不思議そうなイサトの口調に花梨はどきりとした。

借りた着物には翡翠の香りが残っている。

(こうして着ていると、翡翠さんと一緒にいるような気持ちになれるんだよね)

それで、翡翠と別れてからもずっと彼の着物を着ていたのだ。

「い、言われてみればそうだね。ははっ、わたし何やってんだろう。あんまり濡れてないもんだからついずっと着ちゃった。洗濯しなきゃいけないのに」

翡翠のことを好きだというのはまだ秘密にしておきたい。

花梨は慌てて翡翠の着物を脱いだ。畳んで部屋の隅に翡翠の着物をやった後、花梨はイサトに向かって、これで問題ないよね、という意味を込め微笑した。

「ま、翡翠の着物のことは置いといて。なあ、東寺に現れた怨霊のことだけどさ……」

イサトが話し始める。

花梨は相槌を打ちながらも、心では翡翠の着物ことを考えていた。

(この着物返したくないなあ。翡翠さんと一緒にいるみたいだから。彼と同じで大きくてあったかくって……まるで翡翠さんに抱かれているみたい)

京の穢れを祓ったら自分は元の世界に戻らないといけない。

(もし告白したら翡翠さんはOKだしてくれるかな?)

自分のことを見るたび甘い台詞を言う翡翠。それは彼の本心なのか、それとも彼の性格がそう言わせているだけなのか。

(でも考えてみれば、大人の翡翠さんがこんな小娘を相手にするわけがないよね……)

そこまで考えて花梨は溜息をついた。

「おい、花梨。大丈夫か?」

イサトの声に我に返る。そうだ、彼と話していたことをすっかり忘れていた。

妄想にふけってました、とは言えず花梨は咄嗟に、

「ごめん。ちょっとぼうっとしてた」

花梨の詫びに、

「おいおい、ちゃんとしてくれよ。もう一回話すからな。あーそれとも別のやつも交えて話した方がいいかなあ。オレと花梨だけの問題じゃないし」

「そうだね。他の八葉たちにも聞いてもらったほうがいいね」

「明日、都合のいいやついるかな」

「じゃあ、手紙書くことにするよ」

「七人分、大変かもしれねぇけど頼むぜ」

 ぽんぽんと軽く肩を叩かれる。

「みんな来てくれるかな」

「あぁ、お前のためなら集まってくれるさ。とにかく今日はここまでにするか。花梨、またな」

「また、明日会おうね」

イサトを見送った後、花梨はひとり部屋の中にいた。

考えることはただひとつ――――翡翠のことだ。

 手にはしっかりと翡翠の着物を握っていた。

(わたしの馬鹿。何翡翠さんの着物を見てにやけてるんだろう)

 着物に顔を近づけて吸い込むと、ふわりと甘い香りがした。

「翡翠さんの香りだ……。もう一度着てみようかな」

 一人呟いた後、花梨は慌てて首を振った。

「ダメだよ。そんなことしちゃ。翡翠さんのことが恋しくなるじゃない」

 あーあと深い溜息をついて、花梨は着物を膝の上に置いた。

 後は洗濯に出すだけだ。

「おやおや、もう一度は着てくれないのかい?」

「ひ、翡翠さん!?」

残念そうな声に花梨は飛び上がった。

ここに翡翠はいない。

翡翠の着物が喋るはずもない。

「幻聴?」

 花梨は小首を傾げる。

「酷い言われようだね。幻聴扱いされるとは」


またもや翡翠の声が聞こえ、花梨は心臓が止まるかと思った。

 恐る恐る振り向いた先に見えたのは――――
「翡翠さん!」

 幻覚ではない。

 本物の翡翠が悠然と笑みを浮かべ御簾越しに立っていた。

「入ってもいいかい?」

「はい」

 翡翠は御簾を上げると、中に入った。

「ご、ごめんなさい。幻聴なんて酷いこと言ってしまって……。でもどうしてここに?」

 俯き加減に花梨は謝った。

「姫君のことが気になってね。風邪を引いてないかと。でもその心配は杞憂だったようだ。ねぇ、もう一度は着てくれないのかい?」

「へっ? 着るって?」

「ふふっ、神子殿が私の着物を握り締めもう一度着ようか着まいかと迷っていたものだから」

 翡翠の言葉に花梨は赤面した。

 よりによって翡翠に恥ずかしい独り言を聞かれていたとは!

「借り物だから早く洗濯しないといけないのに! 本当にごめんなさい!」

「可愛いな、君は。私はね、怒ってるんじゃないんだ。寧ろ嬉しいね。君が私の着物を斬るか着まいかで悩んでくれたのが」

 花梨は羞恥を忘れ翡翠を見た。

「花梨、こちらへおいで」

 翡翠が手招きをした。

 着物が落ちたことも気にしないで、花梨は酔ったようにふらふらと翡翠の元へゆく。

 背中に手を回され、ぽんと抱き締められた。

「あっ……着物」

「ねぇ、姫君。私だけを見てくれまいか」

「翡翠……さんだけ?」


「そう。本物の私がいるんだから。着物のことは忘れてほしい。さっきと、話が矛盾しているかもしれないが……ふふっ、おかしいかもしれないが私はね、自分の着物にさえも嫉妬しているのだよ」


 悪戯っぽく笑う翡翠。

「私だけ、私だけを見つめてほしい。愛しい君の笑みはすべて私だけが見ていたい」

 花梨は翡翠を見た。

 そこにはいつもの遊びではない真剣な瞳があった。

(これって本当に……)

 じわあっと花梨は心の奥があたたかくなるのを感じた。

「わたしも……」

 花梨は言いかけて口を閉じた。

 もしかしたら翡翠の心は違うかもしれない。

 もう少し様子を見てから。

 答える代わりに、花梨は翡翠の胸に顔を埋めた。

 着物と同じ、ふわり甘くてやさしい香りがした。



END



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